平成26年度 情報11

NHKスペシャル “消えた”子どもたち 

 H26年12月22日放映

(調査報告 “消えた”子どもたち ―――届かなかった「助けて」の声)

 

  **NHKのイントロ**

 

学校に1度も登校しなかった子の相談を、児童相談所にしたが、児童相談所は介入しなかった。学校側が、母親とは会って話をしていたので、リスクは低いと判断したとの回答であった。その結果、この子(ナミさん)は18年間、“消えた”状態にありました。

ナミさんが保護されて9年、彼女は明るい部屋では眠れないので押し入れで寝ています。当時は、学校の先生が家に来るたび押し入れに入れられていました。ナミさんは、今、次のように話しています。「自分だけ、この世にいなかったことのように隠されてきたので、助けて欲しいって何度も何度も思いました。でも誰も助けてくれませんでした。本当に18年間というのは取り戻せないし、簡単に取り戻せとか言われても取り戻すことはできません。(ナミさんとして後述)

 

    

***NHKの放映内容の概略を記述します。社会の一人として、

ぜひ目を通してください。***

 

社会から消えてしまった子どもたちは、どれくらいいるのか。保護してくれる養護施設など1377の施設にアンケートをしました。6割に当たる834の施設から回答がありました。

社会との係わりを持てず、義務教育さえ受けられずに保護された子が1039人いました。その期間は、1か月から10年以上に及んでいました。

調査によると、ホームレス状態の子もいました(姿が消えていた子)。その人数は85人でした。自動販売機の後ろで暖をとっていた幼い兄弟が、車上生活の末、ミイラ化していた事例もありました。

1 車上生活をしていた子どもが取材に応じてくれました。ケンジ君の場合:小学4年生から1年半の間学校に通えなかった。父親の事情で一家6人は夜逃げし、居所を隠すために、車で駐車場や公園を転々と移動していました。寝るときは車の中で、トイレは公園で、お風呂には入りませんでした。食事は弁当一つを皆で分けて食べました。その間、ケンジ君は学校に行きたいと両親に訴えていましたが、今は金がないから駄目だと言われました。他の子が楽しそうに学校に行っているのを見ると、なぜ僕は学校に行けないんだろうと思いました。見つけてほしかった。ケンジ君は父親が病死したのをきっかけに施設に保護されました。

 

 

社会から、姿が見えなくなってしまった子どもたち、親たちはなぜ子どもたちをそのような環境に追い込んでいたのか、アンケートで最も多かったのは、育児放棄を含む虐待(ネグレクトを含む)、そして貧困などの経済的な理由、さらに、親の精神疾患や障害という理由もありました。今の社会で様々な事情を抱える親たち、外からは見えにくい家庭の中で社会との接点を見失っていたのです。

 

2 マオさんの場合:保育士をめざし定時制高校に通うマオさんです。母子家庭に育ったマオさん。10歳の時、母親が精神疾患になって生活が一変しました。いつ何があるのかわかりませんでした。母親のリストカットは当たり前だったので、自分が学校に行っている間にも、母親が救急車で運ばれ学校から帰ることもありました。学校に行きたい気持ちはあるが、母親を置いては行けなかったのです。母親の面倒を見ながら、家事一切をするようになりました。中学校の3年間、行きたくても行けない日々が続きました。3食をいくらのお金を使って、毎日を乗り切るかを考えていました。いつ終わるのだろうか、ずっとこのままなのかと考えていました。マオさんのこのような状況に、周りの人はなぜ気づかなかったのだろうか。住んでいた家は家が密集していた地域でした。

地域の人へのインタビュー:①急に奇声を上げたり、自分で手を切ったりとか、常に救急車を呼んでいた。近所の方は誰一人関わっていなかったと思う。②引っ越してきたときは、母が病気だと言って、マオさんがあいさつに来られましたよ。しっかりしたお姉ちゃんだと思いました。中学生だが学校には行ってないと話していました。

  近所の人はどう見ていたのか:①親子の関係だから私は何とも言えません。「どうして学校に行かないのか」くらいしか思っていなかった。

  学校はどう見ていたのでしょうか。当時の中学校の校長です:担任が家庭訪問をしていましたが、自分の意思で学校に来ない不登校だと思っていたといいます。いわゆる不登校という情報は入っていたと思います。ただ、家庭の支援というところに学校は認識を持っ ていなくて、お母さんが登校の足を引っ張っていたとは認識していなかった。

  周囲の大人が深く関わろうとしない中で、マオさんは孤立を深めていきました。マオさんの言葉:母親がタクシーで帰ってきて、運賃がなくて、中学生ぐらいの私が話をするんですよ。全然知らないタクシーの運転手に怒られて、「しっかりしいや!」など言われました。普通に考えたらおかしいじゃないですか。子どもが出てきて「すみません」と謝るなんて。なぜ「どうしたの?」、「大丈夫?」と声をかけてくれへんのかなと思いました。みんながみんな、自分のことばかり気にして生きていて、誰も助けてくませんでした。

 

  {周囲の大人の無関心が、マオさんの姿を社会から“消して”いきました。}「誰の助けもない中、毎晩絵を描き 救いを求めていた。」マオさんの言葉:こういう真白い紙に 強い力を持っているキャラクター(漫画の主人公)を描くことで、自分も強くなれたような、こういう力があったらいいなと思いました。

  消えた子どもたちが保護されただけでも1,039人、今も姿が消えた子どもたちがどのくらいいるのか、実態は把握されていません。

 

3 18歳まで家に閉じ込められていたナミさん(冒頭の事例の人):今児童相談所で子どもを支援するボランティアに参加しています。しかし、人との会話に加われないことがあります。「人と関わることですごい緊張感があって、変な風に見られてないかと、対人関係自体が難しいなって」思います。

アルバイトを探そうと何度も履歴書を送りましたが、不採用となり、送り返されました。義務教育さえ受けられなかったナミさん、保護された後、23歳で中学の卒業資格を取りました。人が普通に答えられることを自分はできないので、例えば、「家族は?」、「兄弟は?」、「学校はどこに行っていたの?」等々、そういうことを聞かれるのがどうしようもなく苦痛になってきて、インターネットやテレビで「虐待や母親」という文字を目にするだけで、今でも突然過去の記憶がよみがえってくると言います。思い出すと本当にきついんですよ。(テレビの画面では、泣きながら暗い押入れのような部屋に逃避する様子が放映されました。)保護されて9年、心の傷がいえることはありません。

    

 

今回明らかになった子どもたち、その後に人生にどのような影響があるのか、アンケートからは深刻な実態が浮かび上がってきました。生活に支障ができるほどの学習の遅れや身体の発達への影響、700人ほどの子どもが苦しんでいるのがわかりました。中には、保護された後、社会に出ぬ前に自殺した女性もいました。

 

 

4 ユキさんの場合:自ら命を絶ったユキさん、中学2年生までの7年間学校に通わせてもらえませんでした。ユキさんが保護された児童養護施設には、職員に宛てて書いた手紙が残してありました。「夜は縛りつけられ、殴られて血が出た。椅子に座らせられ、ビニールテープでぐるぐると縛りつけられた。ドアにはビニールが貼ってあった。」(日記にその様子が描いてあった。)施設に来た当初は誰とも関ろうとはしなかった。テレビの前の椅子に静かに座っていた。笑いもせず、ただ視ているだけだった。手紙には、ユキさんの苦悩がつづられていました。

  「今でも人を疑ってしまう。みんなと違う育ち方がいけないの。頭の病気なの。それとも、なんでみんなと違う考えしかできないんだろう。私は、これから1年後どうするの?死んだ方がいいの?なぜ生きているの?助けて!」

  18歳になり児童養護施設を退所したユキさん、その後、自立支援のための施設に移りました。施設に来て半年後、ユキさんは自らを傷つける行動をとるようになりました。リストカットが始まりました。施設長さんの話:自分に自信がなかったし、自分の生きている意味を問いただせなかったと思います。「ここは自分に合わないから」ということで1年半で退所しました。その後連絡が取れなくなり、3年後、消息が分かりました。駅のホームから飛び込み自らの命を絶ったという情報でした。23歳でした。

 

5 介護福祉指導員として働く志与さん:小学3年生から母親の都合で学校に通いませんでした。母子家庭に育った志与さん。母親は離婚をきっかけに次第にうつ状態になり、「お母さんから離れないで」と、志与さんに依存するようになりました。一人で泣いたりする母親をみて、ママを悲しませてはいけないと思いました。

学校にも行けないでいる志与さんの異変に気づき、声をかけた人がいます。叔母の山田裕子さんです。当時、家を訪ねた時、志与さんが、電気をつけない暗い部屋でいる姿を見て驚きました。異常でした。一人ぼっちを自然に過ごしているという風に、思い込んでいる、思い込もうとしている姿が、すごく私の中では不憫に思えたのです。いま、この子に声をかけられるのは私しかいないと思っていました。現在、母親の葉子さんは精神的な安定を取り戻しつつあります。当時は、山田さんから「学校に通わせた方がいい」と言われても、耳に入らなかったと言います。「外で人に会わなくてもいい」と思っていたのです。心の中は、人を信用したくないし、信用できなかった。娘を手放したくないし、人のところにやったらイコール 取られる気がしたのです。山田さんは母親の洋子さんと何度も話し合いを重ね,志与さんを引き取りました。小学生だった志与さんを育て高校まで行かせました。先日、友人たちに20歳の誕生日を祝ってもらいました。今では、母親の洋子さんも当時の山田さんの判断に感謝していると言っています。

    

 

母親の話:「救われたね、救われた。当時は、必死で頑張っているママの気持ちにもなってほしいというのが大きかった。そういうエゴが大きいのよね。本当は、志与ちゃんのことを考えなければいけなかったのにね。」

叔母の山田さん:「気づいてあげないとね。大人が・・・。学校の先生でも、近所のおばさんでも、親類の方でもね、子どもたちをきちんと見てやる大人がいないといけないと思う。たくさんの大人が気付いていると世の中は少し変わるのではないか。」その後、里親を始めた山田さん、事情を抱えた子どもを養育している。今も、6人の子どもたちと向き合っている。

 

 

  18歳まで社会との接点を絶たれていたナミさん(冒頭の事例の人)を助けられなかったことを悔やんでいる児童相談所の河浦さん達スタッフは、あれから9年、ナミさんとのつながりを大切にしてきました。「ナミさん:苦しいけど何とか生きている。」、「河浦さん:それってすごいですよね。あなたの、その背負い方は、少しずつ変わってきたような気がするね。」**対応している河浦さんのビデオの表情は素晴らしいの一言に尽きる。**

 

 

先月下旬、ナミさんは親友を前に初めて自分の体験を語りました。消えた子どもの苦しみを知るため、周りの子どもに目を向けてほしいという思いからです。

子どもたちを孤立にさせない社会であって欲しい。今、ナミさんは、子どもたちを守るためのボランティアに取り組んでいます。楽しい学校であったり、より多くの子どもたちが、普通に生きて、普通に過ごせる地域であったりすることが一番の願いです。

 

 

助けを求める小さな声を聞き漏らさないでください。私たちがもう1歩踏み出すことを子どもたちは待っています。